気の毒すぎる?歴史に残る有名王室の方々の肖像画がまさかのクオリティ

もしあなたが、自分は写真写りが悪いと悩んでいるのなら、自分の姿を残す唯一の方法が絵を描いてもらうしかなかった時代ではなくなったことに感謝しましょう。当時は肖像画の完成までに何時間もかかったばかりではでなく、望みどおりに仕上がることもなかったのです。

肖像画は、その後の世間が人物の姿を知りうる唯一の方法でした。ここでは、歴史上、最も気の毒とも言える王族の肖像画をご紹介します。

神聖ローマ帝国 皇帝レオポルト1世

Portrait of Leopold
Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images
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神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の次男のレオポルト1世は、ハンガリー、クロアチア、ボヘミアを統治する王でした。治世中に東方ではオスマン帝国と、西方ではいとこであるルイ14世と対立していました。

ハプスブルク家の皇帝としては最も長く、およそ50年にわたって君臨しました。そして、これは1667年、ミゲル・デ・セルバンテス作『ラ・ガラテア』のアシスに扮した劇中衣装を身につけている肖像画です。

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神聖ローマ帝国 皇帝マクシミリアン1世

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Portrait of Maximilian
Imagno/Getty Images
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神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世は教皇による正式な戴冠式を受けず、トリエントのユリウス1世によって戴冠されましたが、これは本来の戴冠式の伝統に反していました。マクシミリアン1世は1514年から1519年に亡くなるまで、どこに行くにも自身の棺を持参させました。

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そして葬儀にあたっては、「この世のすべての栄光が滅びることを公に示す」ため、自身の髪を切って歯を抜かせ、体を鞭打った後に石灰と灰で覆うように指示していました。

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アラゴン王 フェルディナンド2世

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Portrait of King Ferdinand II
Imagno/Getty Images
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1469年にカスティーリャ王女イサベル1世と結婚したフェルディナンド2世は、「スペイン王政の基礎を築いた」と評されています。フェルディナンド2世は生前、スペイン初の国王とされ、クリストファー・コロンブスの最初の航海に融資し、ヨーロッパによる新大陸発見に一役買いました。

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1516年に亡くなるまでに、現在のスペインを構成する全領土を支配しました。この肖像画は、15世紀から16世紀にかけてミヒャエル・シトーによって描かれたものです。

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スコットランド王 ジェームズ2世

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Portrait of James II
National Galleries Of Scotland/Getty Images
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作者は不明ですが、これはスコットランド王ジェームズ2世の肖像画です。1437年、わずか6歳の頃に父王が暗殺され、ジェームズはスコットランドの王位を継承しました。

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ジェームズ2世は、顔にアザがあったことから「Fiery Face(炎の顔)」というニックネームがありましたが、それは気性の荒さも表していたと言われています。1460年に大砲の暴発によって29歳で命を落としたジェームズ2世ですが、1437年から23年にわたる統治は、ダグラス伯爵を殺害したことに関しては議論の余地が残るものの、全体としてはむしろ成功だったと評されています。

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イヴァン雷帝

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Portrait of Ivan
Michael Nicholson/Corbis via Getty Images
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イヴァン4世は、1533年から1547年までモスクワ大公として、1547年から1584年まで全ロシアの初代ツァーリとして活躍した人物です。イヴァン4世がロシアを新時代に導いたことは疑いの余地もありませんが、実は業績よりも非情な性格のためによく知られています。高い知性を持ちながらも激しい感情を抑えることができず、妄想症に陥り、精神が不安定になりがちだったのです。

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よく知られている逸話としては、自身の跡取りだった息子と、その妻のおなかにいた胎児を殺害したというものです。その後、末っ子のフョードル・イヴァノヴィチが王位につき、ロシアを「悩みの時代」と呼ばれる時代に導くことになりました。

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イングランド王 ヘンリー8世

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Picture of Henry VIII
Heritage Images/Getty Images
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このイギリス王ヘンリー8世の肖像画は、1547年にコーネリアス・マシスによって描かれましたが、どうやら、マシスはヘンリー8世を高く評価していなかったようです。1509年から1547年までイングランドを統治したヘンリー8世は、6回も結婚をしたことで知られています。最も有名なのはキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚でしたが、王はこれを無効としています。

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その結果、イギリス宗教改革が起こり、王は教会から破門されることになりました。若い頃には有望だったヘンリー8世でしたが、晩年には好色で浪費を重ね、妄想症を患っています。

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キャロライン・オブ・ブランズウィック

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Picture of Caroline
Guildhall Library & Art Gallery/Heritage Images/Getty Images
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1795年から1820年まで皇太子妃であったブランズウィック家のキャロラインは、短期間ながらイギリスとハノーファーの女王でもあり、1820年から翌年亡くなるまで国王ジョージ4世の妻でした。

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ジョージはキャロラインを嫌っていたことで知られていますが、イギリス国民は彼女を愛し、逆に、キャロラインが拒否しているにもかかわらず離婚を試み、彼女を不当に扱う国王を嫌っていました。この青いガウンを着たキャロラインの肖像画は、1829年にジェームズ・ロンスデールによって描かれたものです。

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スコットランド女王 メアリー

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Portrait of Mary Queen of Scots
Hulton Archive/Getty Images
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スコットランド女王として知られるメアリー・ステュアートは、スコットランド王ジェームズ5世の子どものうち、生存した唯一の子どもでした。ジェームズ5世が早世したため、王位についたのはわずか生後6日のときでした。幼い頃から成人するまで、メアリーはそのほとんどをフランスで過ごし、1561年にスコットランドに戻っています。

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後に夫殺害の容疑をかけられたメアリーは、従姉妹のイングランド女王エリザベス1世に保護を求め、イングランドに逃亡しています。しかし、メアリーは自らがイングランド王位継承者であるとしてエリザベス1世の廃位の陰謀に関係したため、エリザベス1世はメアリーを18年間にわたって幽閉しましたが、最終的にメアリーを処刑しました。

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イングランド女王  エリザベス1世

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Picture of Queen Elizabeth
Print Collector/Getty Images
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エリザベス女王はイングランドの偉大な君主の一人とされていますが、15世紀後半から16世紀初頭にかけてのこの肖像画は、彼女の姿をうまく捉えているとは言えないでしょう。「処女女王」と呼ばれていたエリザベス1世は、ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘で、テューダー朝第5代にして最後の君主でした。

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1588年にスペイン艦隊からイギリスを守るなど、数え切れないほどの功績を残しています。跡継ぎを期待され、何度も求婚されたにもかかわらず、一度も結婚することはありませんでした。

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神聖ローマ皇帝 カール5世

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Portrait of Charles V
Photo12/UIG/Getty Images
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これは、神聖ローマ帝国皇帝、オーストリア大公、スペイン王、ネーデルラント君主など、58年の生涯を通じていくつもの称号を手にした神聖ローマ帝国のカール5世の彫刻です。

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しかし、これだけの権力者でありながら、血族結婚を繰り返したハプスブルク家特有の顎や癲癇(てんかん)などの不健康に悩まされました。また、痛風がひどくなったため、車椅子で移動し、スロープで部屋に入れるようにもしていました。

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スペイン王 フェリペ4世

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Portrait of Philip IV
'The Art Collector/Print Collector/Getty Images
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フェリペ4世は1621年から1665年までスペイン国王、1621年から1640年までフィリペ3世としてポルトガル国王を務めました。両国の王として良い評価も悪い評価もあったフェリペ4世ですが、芸術をこよなく愛し、ディエゴ・ベラスケスのパトロンとしても知られています。

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フェリペ4世は三十年戦争でスペインを率い、1665年に亡くなるまでにスペイン帝国は実に750万キロメートルを超える領土となり、それにともなって人口も増えていきました。

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イングランド王 ヘンリー7世

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Portrait of Henry VII
Ann Ronan Pictures/Print Collector/Getty Images
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テューダー朝初代君主のヘンリー7世は、1485年から1509年に亡くなるまでイングランド王とアイルランドの君主でした。ヘンリー7世は、薔薇戦争の重要な戦闘とされるボスワース・フィールドの戦いでエドワード4世の弟リチャード3世を破って王位に就きました。

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ヘンリー7世は王権にあぐらをかくことなく、領地の改良に力を注いだことでよく知られています。24年にわたる治世の後、息子のヘンリー8世に平和裏に王位を継承しました。

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王太子 ヘンリー・フレデリック

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Portrait of Prince Henry
Museum of London/Heritage Images/Getty Images
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ヘンリー・フレデリックは1594年に生まれ、ジェームズ1世の長男としてイングランドとスコットランドの王位継承者として育てられました。青年期のヘンリーは、悲劇に見舞われるまでは将来有望な王だと思われていました。

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政権を握る前に、18歳の若さでヘンリーは腸チフスでこの世を去ってしまいます。その後、弟のチャールズがイングランド、スコットランド、アイルランドの王位を継承することになりました。この肖像画が描かれた当時、ヘンリーはまだ9歳か10歳だったと推測されています。

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スペイン王 フェルナンド7世

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Portrait of King Ferdinand VII of Spain
Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images
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フェルナンド7世は王位継承者として育てられ、1808年に即位しました。しかし同年、ナポレオンに占領されてしまいます。その後1813年に再び権力を取り戻しますが、絶対王政を確立し、1812年の自由主義憲法を無効としました。

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フェルナンドの治世中、スペインはアメリカ大陸のほぼすべての領土を失い、スペインは内戦に突入することとなりました。今日、彼は「無能な」支配者であったと広く評されています。

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イギリス王 ジョージ3世

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Picture of King George III
Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images
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ジョージ3世の治世は、自らの王国をはじめ、アメリカ大陸、アフリカ、ヨーロッパの一部、アジアなど様々な紛争が絶えませんでした。アメリカ独立戦争に敗れただけでなく、ジョージ3世は晩年、精神を病んでしまっています。

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現在では、双極性障害や血液の病気であるポルフィリン症の可能性が指摘されています。晩年は認知症が悪化し、完全に目が見えなくなり、耳もほとんど聞こえなくなり、何時間もくだらないことをしゃべり続け、晩年は歩くこともままならなかったと言われています。

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イングランド王 ジェームズ1世

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Portrait of James I
Hulton Archive/Getty Images
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ジェームズ1世はジェームズ6世とも呼ばれ、スコットランド王としてジェームズ6世を、イングランドとアイルランドの王としてジェームズ1世と呼ばれました。スコットランド女王メアリーの息子で、ジャコビアン時代と呼ばれる時代に22年間にわたり3王国を統治しました。

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スコットランドの王でありながら、自らを「グレートブリテンおよびアイルランドの王」と称し、スコットランドには数回しか行かなかったと言われています。1574年に画家ズッケロが少年の頃のジェームズ6世を描いたこの肖像画を作ったときには歴史上の評価は高くなかったのかもしれませんが、現在ではジェームズ6世の評価は比較的よくなっています。

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ローマ皇帝 ネロ

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Portrait of Nero
Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images
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ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスは、紀元54年から68年までローマを支配した第5代皇帝です。ネロは17歳で養父クラウディウスの後を継ぎましたが、すでに暴君の気配を漂わせていたようです。

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ネロの治世は、しばしば浪費、処刑、拷問、堕落という言葉で表され、ネロの指導下でローマは苦境に立たされました。冷酷な性格で知られ、実の母親を殺害したほどでした。紀元68年、反乱をきっかけにネロは自害しています。

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フランス王 ルイ16世

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Picture of King Louis XVI
Universal History Archive/Getty Images
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1754年に生まれ、1793年に没したルイ16世は、フランス革命で王政が廃止されるまでの最後のフランス国王でした。ルイ16世は、イギリスに対するアメリカ植民地の独立戦争を推進したことで知られていますが、フランスの支援は最終的に王政に対する反乱を引き起こすことになりました。

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ルイ16世は、当時の啓蒙思想に合うようにフランス政府を改革しようと試みたものの、フランス革命の際に斬首刑に処されることとなりました。

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ロシア皇帝 ピョートル3世

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Portrait of Peter III
Hulton Archive/Getty Images
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ピョートル3世がロシア皇帝になったのは、1762年のわずか半年間でしかありませんでした。ドイツ生まれでロシア語をほとんど話せず、親プロイセン政策を支持していたこともあって、臣下からは特に嫌われていたようです。

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そして、妻であるアンハルト=ツェルプスト侯国の元王女ソフィー(改宗後エカチェリーナと改名)を支持する軍隊がクーデターを起こすまで、そう長くはかかりませんでした。ピョートル3世が捕虜となって死んだのは、妻の命令によるものだったと思われていますが、事故死ではないかとの噂もあるようです。

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スペイン王 カルロス2世

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Portrait of Charles II
Fine Art Images/Heritage Images via Getty Images
Fine Art Images/Heritage Images via Getty Images
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1665年から1700年までスペインの王として君臨したスペイン国王カルロス2世は、「呪われた王」として知ら れています。カルロス2世の治世は、生涯を通じて悩まされていた病気以外は、あまり記録に残されていません。

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近親婚のために起こるハプスブルク家に特有の顎の病気に加え、下垂体ホルモン欠乏症、遠位尿細管性アシドーシスなどの健康問題を抱えていたことが知られています。1665年に4歳で王となりましたが、歴史家は「彼の始まりは彼の終わりで、生まれたその日から、人々は彼の死を待ち望んでいた」と述べています。この肖像画は1693年にジョルダーノ・ルーカが描いたものです。